モーニング娘。とは

■有形であり無形
紺野が卒業して一日経ったわけですが、当日もですが至って不思議なほど落ち着いている自分がいます。
もちろん寂しさはあるけど、どこかしら芸能界という世界には残って欲しくなかったと思う気持ちもあったりね。
誤解しないで欲しいのは、嫌いだとか見たくないとかではなく、ある種染まって欲しくないなと思っていました。
もちろん自分が思う紺野像っていうのはテレビやライブを通してだけなので、実は・・・って部分もあるんだろうけど、イメージとしては白なんだよね。
だからこそ華やかな世界ほど・・・っていう部分に触れて欲しくないなと思った次第。
テレビや雑誌で見れる機会は無くなっちゃうけど、個人的には普通の女の子でいて欲しいなと思いました。

そんな中、zeinさんの日記に大変共感したというか、常に思っていたことを書かれていたので、向こうに長文残すのも失礼なので(ちょっと書いちゃいましたが・・・汗;)自分のとこで書いてみたいと思います。

モーニング娘。が5人からスタートして、数々の加入・卒業・脱退を繰り返して肥大化するにつれ、単推し傾向が顕著になり今や娘。のファンは個々のメンバーを応援するファンによって形成されていると言っても過言ではないと思います。
かつて自分は後藤真希が卒業するまで推しを聞かれても「モーニング娘。」と答えていました。
とはいえもちろん当時の娘。内でも贔屓目で見ていたのは後藤真希であり、それが単推しということではなく、後藤真希を包括する娘。というユニットが好きだったわけです。
これは後藤真希が卒業しても変わることがないんですが、娘。というユニットはすでにブランドであり、ひいてはハロプロの歴史でもあります。
後藤真希を育てたのは紛れも無く娘。であり、とてもじゃないが軽視できない存在です。

例えば娘。を代表する曲「LOVEマシーン」を、すでに発売当時のメンバーが一人も在籍していない今のメンバーが歌っても、やはりそれは娘。の歌う「LOVEマシーン」なわけですよ。
これがメロン記念日や、かつて在籍してたメンバーがいる美勇伝、DEF.DIVAなど「モーニング娘。」という括りがなければ、それはやはり娘。が歌う「LOVEマシーン」ではないということ。
改めて目には見えない娘。イズムが脈々と流れているんだな〜と実感します。
なんだろうな、やはり自分が惹かれるのはいくらメンバーが変わろうと、不変的な部分があるからなんでしょうね。
歌う楽曲はバラエティーに富んでいるんですが、何ていうの「娘。らしさ」が必ずあるってことが自分の中では大きいかな。

さてさて、そんな自分も今月は紺野のアクセをかなりの数作りました。
これが来月卒業を迎える小川の時も同様かというと、すいませんそこは贔屓目の部分もありますし、何より素材数の違いもあるので今月のような状況にはならないと思います。(汗;
今回紺野のアクセはアロハロという素材に助けれた部分が大きいので、基本アクセ作りは素材次第ですので、小川の時も小川の2nd写真集が間に合えばといったところでしょうか。

■8期オーディション
余韻ひたる暇もなく、小川は卒業前だってのに踏んだり蹴ったりだな。(汗わら
ま、紺野も朝のニュース、辻ちゃん(辻ちゃんに悪気はなくとも)に持ってかれた感があるので両成敗ということで。(滝あせ;
正直自分はあとこれで少なくても1年は娘。というユニットは存在するなと安心しております。
どんな子が入ってくるという心配よりも、娘。が存在し続ける方が嬉しいもんでね。
何とか10周年迎えて欲しいし。

■サイリウム企画に思うこと
タンポポ祭以降、卒業生が出る度、引いては誕生日がライブに重なる度にサイリウム企画が立ち上がりますが、今まで賛同することもなくサイトにもバナーを貼ったりもすることなかった訳ですが、ただ単に否定しているのではなく、純粋な目的の為ならば大いに賛同したいところなんですけど、やはりファンによる自己満足度が高すぎるような気がします。

企画側の運営(関係者への問い合わせだったり、サイリウムの準備等々)の大変さも想像に難くないのですが、やれ一部の人に反論されると運営する大変さを説いたり、メンバーへの想いも説いたりされていますが、確かに卒業するメンバーへの愛情の為に動いていることも分かります。
がしかし同時にその想いが押し付けであったり、自己満足ではないのかと思うことがあります。
企画が終わった後に「成功した」と賛同された方々の書き込みをみますが、成功って何?と問いたい。
メンバーを泣かせたことが成功なのか?
会場が一色に染まったことが成功なのか?
「成功した」という言葉に果たして純粋な想いはあるのでしょうか?
確かに卒業するメンバーへの想いを込めて点灯されていると思いますが、それが会場の総意ではないような気がします。
企画側・賛同された方にある意味達成感があるとすれば、やはりそれは自己満足なんでしょうね。

ファンの想いを形にするというのであれば、現時点ではやはりサイリウムが妥当なんでしょうけど、かつてのタンポポ祭のようなファンの想いは今は感じられません。
どちらかというと義務的であり、想いを届けるという部分が希薄なんだと感じます。
と同時に今回のようなケースに対して、単推しの暴走的な部分が感じられ、良かれと思ってしたことが残酷な結果を招いているのではないかと思います。
片やあと一ヶ月残っているとはいえ、やっぱ配慮が足りないよね。
単推しも結構ですが、娘。というユニットを構成する他のメンバーにもリスペクトをはらっていただきたい。
自分はそう思います。

▲個人的雑感:
以前矢口が自身のラジオで、自分の時は何色だろうと話したことがあったと思います。
それを聞いて、自分はこれはサイ企画の罪だと感じました。
送られる側と送る側が義務的になったら、それはすでに高尚な想いではないと思ったからです。
しかしながらファン主導として大きく動いた企画を止める手立ては、起こしたファンにすでに無く、大きなうねりとなって誰かしら立ち上げる企画となってしまいました。
どこかで止めた方がいいんじゃないかなと思うんですが、多分止まらないでしょうね。
今度の小川の時は、「カーテンコール時にサイリウム」とかなるんじゃないのかな。
個人的にセレモニーは娘。サイドに任せて、ファンは大きな拍手と声援だけでいいと思うんですけどね。
想いがあればサイリウムも何色でもいいと思うし、それでも想いは十分伝わるものだと思います。

なんだかんだでファンってもんは利己主義で、ボード然りレスをもらう事に必死になりすぎて周りが見えてないんじゃないかな。
ボードは単推しからレスもらう為、サイ企画は会場全体でボード出してるようなものなんじゃないかなと。
卒業するメンバーに「会場が○○一色だよ」と言わせんが為とかマスメディアに載ることが目的みたいな。
もしかすると自分はすごく穿った見方をしてるのかもしれませんが、とはいえ純粋に応援の為に点灯したという方へは畏敬の念を感じざるを得ません。

ここまで長々と書きましたが、ただ「成功した」という言葉は使って欲しくないなと。
応援と感謝を込めた点灯に「成功」も「失敗」もないんじゃないかなと。
応援したい、感謝したい気持ちで点けたのであれば、それはそれで良かったんじゃないでしょうか。
例え会場が一色に染まらなくてもね。
タンポポ祭の時は単純にサイト間の呼びかけだけだったように記憶していますが、今は企画サイトが中心となって組織化してしまった。
なんかそういう部分に気持ちのズレみたいなのを感じます。
2006/07/24(Mon) 23:51:20 | ハロプロ
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